*** mook's US watching 2001 b ***

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Three Days After...
Sep 14, 01

(写真右:9月14日付けNYタイムズの第一面)

Rayおじさんの悲報に、昨夜もショックで暫く眠れないでいると、夜中の1時頃から数時間に渡る激しい雷雨。夜通し外で救出活動を続けるレスキュー隊に雷が落ちやしないかと心配になって、TVを消すことが出来ない。結局雨はお昼頃まで続いた。

朝9時半出社。今朝は地下鉄の駅にフレディの姿もなかったし、やはりベンダーの女性の姿もなく、ひどく淋しい思いがした。
今日はさすがに会社の方も落ち着き始め、同僚の人達にも余裕が出て来たという感じ。私も時間さえあればネットをチェックしていた。それまで「America Under Attack」だったCNNのサイトの見出しが、朝11時ごろから「America’s New War」に変わっている。

その後、朝日新聞のサイトを覗いてみたら、なんとRayおじさんの記事が載っているではないか。

9月14日付け朝日新聞より

とっさにTへメールを書く。正確にではないが、記事を英訳して送ってあげた。「母さん、僕らが父さんを助けるから。大丈夫。どこにいるか分かっているんだ。」という所を訳していたら涙が止まらなくなってしまった。私は勿論、この記事に書かれた息子達:チャックやジョーの事も知っている。

その後、もう少しRayおじさんの記事を探してみた。

New York Times

6パラグラフ目に、オクラホマの爆弾テロの時レスキュー隊のチーフ
として活躍した彼を悼む、オクラホマ州知事のコメントが載っている。

New York Newsday

右上の写真がRayおじさん。下に家族の写真もあり、私にはかなりつらいショット。
この記事が載った13日朝の時点では、まだ家族は彼の生存を信じて疑わなかった。

後で知った事だが、彼の記事は昨日付けのNew York Postにも写真入りで載っている。

エレベーターを待つ間、一人きりになったら突然いろいろな事が思い出されて、また涙が止まらなくなってしまった。

私がTと付き合っていた2〜3年の間、私はRayおじさんにほんの6〜7回しか会っていない。それはどれも、11月のサンクス・ギビング・パーティや12月のクリスマス・パーティ、そして1月のニュー・イヤーズ・パーティでだった。
Tの親戚はそれこそほぼ100%がアイリッシュで(彼はアメリカで生まれ育った3世だが)、家族のパーティ等に行くと、私はアジア人一人などというばかりか、たった一人の非アイリッシュの時もあったりして、初めの頃はひどく居心地の悪い思いがしていた。いつも集まる親戚の中には、彼の従兄弟達の様に最初から何の気兼ねもなく私と話が出来る人達もいれば、私とは何を話していいのか見当もつかない人達もいた。Rayおじさんは実は後者の部類に入る。

一番最初はサンクス・ギビングの時だった。なぜ他の人達が他の部屋にいたのかは覚えていないが、たまたまリビングでTVのフットボールに見入る彼と部屋に二人きりになってしまい、何を話していいのか分からず(自分はフットボールについて何の知識もないし)、ただぼ〜っとゲームを観るしかなかった事を覚えている。多分3分もなかったと思うけど、何だかすごく長く感じた。この時、私は彼のことを怖そうな人だな〜と思っていた。もともと彼は無口なタイプで、他の親戚の人ともあまり喋っていなかった様だけど…。
クリスマス・パーティになると、大人達は(何歳になっても)子供達にプレゼントをあげる。2年目には、Tの両親に加えて、他の2家族が私にプレゼントをくれたので驚いた。そのうちの1家族がRayおじさんの家族だったのだ。プレゼントをくれる時、彼が殆ど初めて私に笑顔を見せたので、それが今でもとても印象に残っている。

Tの父方の親戚には消防士、中でもレスキュー隊に属する人が多く、彼の父親もレスキュー隊のオフィサーだ。神戸の地震後、日本に飛んでレスキュー隊の指導をしていたこともある。そういった関係で、Tは以前からレスキュー隊に焦点を当てたドキュメンタリーの企画を暖めていたが、火災や事故の現場に入り込んでカメラを回す為の許可がなかなか下りない。そんな時、許可の取得に尽力を尽くしてくれたのがRayおじさんだった。その後、今年の春から数ヶ月に渡って行われたドキュメンタリーの撮影に協力してくれたのは勿論のこと、Tの書いたNYタイムズのインタビュー記事にも力を貸してくれている。
上に挙げた各新聞の記事を読んで頂ければお分かりの様に、彼はレスキューの神様とまで呼ばれていた。93年のWTC爆破テロでも復興隊の指揮を取っていたし、オクラホマの爆破テロの時もレスキュー隊のチーフとして活躍した。また彼は、「Rescue Company」という、300ページ以上にも渡るレスキュー隊についての本も出版している。そして来年には定年退職する予定であったのに…。

Rayおじさんの苦しみだけでなく、残された家族の事を思うと本当に胸のかきむしられる思いがする。それまで私の身近で惨事にあったことのある人はなく、こういうことはTVのブラウン管の向こうの世界だけ…と思っていのに、それが急に身近なところで起きてしまった。
実は今日になって、さらに二つの悲報を聞く。一つは、うちの会社のLA支社で働く同僚の義理の弟さんが、WTCの104階で働いていたまま行方不明だということ。家族は今日まで飛行機が飛ばなかった為に、車でLAからNYまでやって来た。もう一つは、知人の俳優のやはり弟さんがWTCで働いており、いまだ行方不明なのだという。行方不明の場合、家族はまず彼/彼女を探し出す為に全ての時間を費やし、知人に報告することはしないから、こういった悲報はこの先時間差でどんどん耳にしていくことになるのだと思う。

今日はDCでペンタゴンの犠牲者の合同葬儀があり、ブッシュがグランド・ゼロを訪れた。議会では武力行使の容認が採択され、外へ出れば軍用機がのべつまくなしに空を先回している。昨日一日だけで、年間購買量を超える星条旗が売れたという。一週間後、世界は一体どうなってしまっているのだろう。
ユニオン・スクエアには何百・何千という人々がろうそくを大事そうに抱えて集まっていた。飛び入りで、アメリカ国家をトランペットで吹き始める人がいた。囁く様な声で、人々が国家を歌い出す。でも私は歌わなかった。それは私がアメリカ国民でない、という理由からではない。それがたとえ日本であれ、どこの国であれ、国家という枠組みに、私は縛られたくないから。国旗や国歌の存在は、“国家”や“国民”という幻想がいかにも存在する様な錯覚を作り出すだけ。私は日本人でもアメリカ人でもなく、いつまでもただの私でいたい。それが自分勝手だという人には言わせておけばいい。私は一人の私としてRayおじさんの為にろうそくの灯をともし、黙祷した。

Peace for All, Peace on the Earth

Four Days After...
Sep 15, 01

(写真右:9月15日日付けNYタイムス第一面。左から ジュリアーニNY市長、パタキNY州知事、ブッシュ米大統領、シューマーNY議員、エッセン消防庁長)

金曜日は夜中に帰って来てうたた寝をした後、明け方に日記をアップして再びベッドに入り込む。アパートには今年初めて暖房が入る程、突然寒い朝だった。
3時間寝たか寝ないかするうちに友達から電話。昨夜、幻のミュージカルと呼ばれる「ザ・プロデューサーズ」のショーに、大量のキャンセルが出たらしい。慌ててシャワーを浴びてブロードウェイに向かった。
こんな時にゲンキンな…と自分でも思うが、戦争の不安におののく今、一週間先には何が起こるか分からない。この5日間来思うことは、「やりたい事、やらなければならない事は、後に回すな」ということである。

この幻のミュージカル「ザ・プロデユーサーズ」は、今年のトニー賞で、史上初の全12部門を制覇し、向こう2年はチケットが取れないという異常な人気を誇るミュージカル。1ヶ月アドバンスでも、ダフ屋でチケットが1枚600ドルもするお化けショーなのだ。当日券に1000ドル(約12万円)払う人もいるくらいだから、普段は当然キャンセル・チケットに手が届くはずがない。ところが、今回の事件でNY行きを取りやめた人や、飛行機が取れずにNYに来れない団体が続出した為、沢山のキャンセルが出ているという。私が劇場に着いたのは開演20分前だったが、すでにキャンセル待ちの人は100人を越えていたと思う。列の先頭の人は、なんと朝6時から並んでいたそうだ。

(写真左:ザ・プロデューサーズ、のパンフより)

もう昼のショーは諦めて夜のショーを待つかと友達と電話連絡をしていた時、何とか3階席にすべり込むことが出来た。開演前、「このショーを、今回のテロの犠牲者全てに捧げます」というアナウンスが入る。また、ショーの終わりには、出演者全員によって「God Bless America」が歌われた。ショーについては後に詳しく書くが、期待を裏切らない素晴らしい出来だった。俳優、セット・デザイン、コスチューム、コリオグラフィー、どれを取っても近年まれに見る質の高さだし、殆ど全てのシーンが目を見張るほど素晴らしかった。ちなみに、16日朝の記者会見でジュリアーニNY市長が「“ザ・プロデューサーズ”のチケットを取るなら今ですよ」と発言してしまったので、今はより多くの人が劇場へ押しかけているに違いない。

バスを乗り継いで、ホイットニー美術館へ。先週観た近代美術館の「Mies in Berlin」と提携している「Mies in America」があと一週間で終わってしまうからだ。待ち合わせしていたK夫妻と彼の両親と暫く話してダウンタウンへ向かう。途中、以前ゲストブックでも紹介した写真家、コーキー=リーと会う。セントラル・パークで行われるメモリアル・セレモニーの撮影があるので彼と別れて、私はユニオン・スクエアへ。ユニオン・スクエアに住む友達の携帯が繋がらない。待っている間、遂にデジカメを買ってしまった。それまで使い捨てカメラで撮影したものを後でスキャンしていたが、私自身はスキャナーを持っていないし、来月スイスへ行くまでにはどっちにしても買おうと思っていたので、思い切っての大出費。

星条旗を掲げて、米国家を歌う人々
ユニオン・スクエアで寄せ書きを
する人々

友達を待つ間、使用説明書を見ながら何枚か写真を撮る。昨夜ほどではないが、やはり今日もたくさんの人が訪れていた。たくさんのキャンドルの中に「War is not the Answer」のビラやポスターを見かける。より多くの人が、復讐よりもそう思ってくれることを願ってやまない。

柱に貼られた「訪ね人」のビラと
たくさんのキャンドル
「人種差別は答えでなく、戦争は前進ではない。
けれども平和は可能である」
消えかかったキャンドルに
灯をともしていく人々

カメラを買って荷物が多くなったので、取り合えず帰宅。友達からの連絡を待つ。今日は、たった2か月前に休暇でNYへ遊びに来た友人のTVディレクターが、取材の為に再びNYへ到着した。生存者の知り合いがいないかと聞かれたが、私の知っているのは行方不明者だけなので…。
2時間後、会うはずだった友達から電話がかかってくる。私からのメッセージがアラートされるのに、2時間もかかったそうな。彼女も私に電話をくれていたが、やはりこちらには通じていなかった。いまだに携帯は100%機能していない様だ。

夜12時を過ぎて、CBSに初めてコマーシャルが流れ始めた。ニュース以外の番組も始まった。相変わらず他のチャンネルは全く映らないが、驚いたことにチャンネル25からNY1ニュースがかすかに見える。これはケーブル局なので、なぜ地上波で見える様になったのかは全くのナゾなのだが…。すれ違ってしまった友達が別の友達と夜の11時半からバーで会うのでこないかと言って来たが、とにかく疲れ果てて腰まで痛くなって来たので今夜はパス。ルームメイト達と買ったばかりのデジカメ使いに奮闘しているうち、また朝になってしまった…。

Five Days After...
Sep 16, 01
(9月16日付けNYタイムスの第一面。
今週の日曜版は通常の厚さの約5分の1くらいだった。)

今日は午後遅く友達に会うことになっていたので、それまでは超ヒマだった(本当は他にやることが山積みなのに、何もする気が起きない)。腰がマジで痛くなって来たので家で寝てればいいものを、あまりに天気が良かったし、せっかく買ったばかりのデジカメを最大限に使ってやろうと(せこい奴)、取り合えず外に飛び出した。

外に出てまず、最初のブロック(6th AvenueとBleeker Street)で写真を撮る。たったの5日前に、炎上するWTCを撮影した場所から同じ様に写真を撮った。今はもう煙しか見えない。北東のコーナーに、いつもは人の入れない小さなサンクチュアリがあるのだが、今日は近所で亡くなった人を供養する為に門は開かれ、たくさんのキャンドルや人々の言葉で埋まっている。

*** 写真をクリックすると拡大します。***

<< 6th Avenue & Bleeker Street >>

9月11日に撮影した場所と全く同じ場所から。
WTCの姿はなく、煙だけが上がっている。
近所に住む、亡くなった人のメモリアル。
この場所は、普段は閉まっているサンクチュアリ。

カーマイン・ストリートを南へ下がって、Houston StreetとWest Side Highway(つい最近、ジョー=ドマジオHighwayと名を変えているが)へ出る。ここは私のジョギングコースのスタート地点であり、これまでここを起点にして、NYの先っぽ=バッテリー・パークまで何度走ったことか…。つい一週間前の日曜日、ここを気持ち良く走ったばかりなのに、この変り果てた姿には言葉もない。
ジョギングやローラー・ブレィディングをする人達に代わって、今日はボランティアの人達が沿道を埋め尽くしていた。積み上げられた水、バンドエイド、ティッシュ, etc。テントの端では、救助隊員の為に学生がサンドイッチを作っていた。沿道にはパトカーや救急車が通る度に旗を降って声援を送っている一団もいる。

<< Houston Street & West Side Highway >>

集まったボランティアの人々。
ボランティアのテント。
ティッシュやバンドエイドの山。
サンドイッチを作る人々。
通り過ぎるパトカーに声援を送る人々。
ずらりと並んだ報道陣。

そこからVarick Streetをさらに南へ下りてCanal Streetへ。ここはチャイナタウンのメイン・ストリート。相変わらず観光客で賑わっている。けれど、私がよく行く映画館「The Screening Room」は閉まっていた。普段は上映映画のタイトルが書かれる看板には「God Bless America」と。そして、上映中だった「ルムンバの叫び」(現在日本でも公開中)のポスターに、誰が貼ったか星条旗が貼り付けてあった。ちょうど、この映画の主人公=カビラ元コンゴ大統領の口の上に貼ってあったので、それが人種(国籍)差別的な意味を含んでいるのではないかと、いやな気分になる。6th AvenueとCanal Streetの北にあるバスケット・コートでは、近所の人達がこれからの街の安全についての集会を開いていた。

やっと通行止めがとけたので、6th AvenueとBroom StreetのところにあるChelsea High Schoolへ行ってみた。ここは現在、赤十字のブランチとして家へ帰れなくなってしまった人のシェルター兼献血所になっている。入り口にいる赤十字のおじさんと話をすると、「僕もO型マイナス(一番必要といわれている血液型)なんだけどね。今はもう血液が余っているくらいで、僕ですら献血出来ないんだよ」と言われた。ボランティアの数も余る程足りているという。皆、とにかく何かしたくてたまらないんだなぁ、と思った。だから 私もそこへ行ったのだけれど…。

<< Canal Street & 6th Avenue >>

メモリアル・キャンドルズ。
クローズしたScreening Room。
左にある「ルムンバ」のポスターの上に星条旗が。
相変わらず沢山の人でごった返す
チャイナタウン。
灰を浴びた車。

そろそろ時間がなくなって来たので、家の近く6th AvenueとHouston Streetへ戻る。南西の角にある消防署には、たくさんのキャンドル、写真、差し入れのお菓子や飲み物が置いてあった。その中でも目を引いたのが、公立学校から送られて来た子供達の絵。基本的には、ヒーローである消防隊員達をたたえたものなのだが、今回のテロ行為をそのまま絵にしているものもある。子供達はどんな思いで今の世界を見ているのだろう。そして、親たちは彼らに何と言って説明しているのだろう…。

<< 6th Avenue & Houston Street >>

消防署に設けられたメモリアル。
道の隅にもメモリアルが…。
子供によって描かれた、事件の絵。
消防署に集まる人々。
熱でライトが溶けたレスキュー・カー。

友人とカフェでだべった後、このページをアップする。昨日書いた友人のTVディレクターがいまだに生存者の日本人を探しているというので、在NY30年以上のNさんに聞いてみた。さすがNさん、すぐにF銀行で危機一髪の経験をした人を紹介してくれた。その後、テレ朝のお昼のニュースで彼の電話インタビューを流したのかどうかは、まだ聞いてないけれど…。

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