*** mook's US watching 2001 ***

Sep 14th - 16th, 2001

September 11th, 2001
(注:読み直しもせず急いで書いていますので、誤字・脱字・読みにくい部分も多いかと思いますが、追って訂正していきます)

2001年9月11日…。月日が経って、多くの人にこの日の事が忘れ去られることはあっても、少なくとも私にとっては忘れられない一日となってしまいました。
お陰様で、私にはかすり傷一つありません。親しい友人も取り合えずは皆無事。結果的にドラマティックな出来事は一つもありませんでしたが、今朝から現在までの14時間、とにかく緊張しまくりました。実際、「まだコレで終わりではないのではないか?」という雰囲気が漂っていますので、完全に安堵の時を迎えたわけではありません。取り合えず駆け足で、今日一日を振り返って見ることにしますね。写真は追って後からアップしていく予定です。

<<The Time of Attacks 〜攻撃があった時…>>

ニュースその他でご存知の通り、最初のクラッシュは朝8時40分頃。爆音は聞こえましたが、何が起こったのかその時は勿論予想出来るはずもなし。ルームメイトのC君は、ちょうど外にいたので大きな爆音を聞いたそうです。ちなみにもう一人のルームメイトFは、寝ていました(^_^;)。で、9時ちょうどのニュースではすでに燃えさかるワールド・トレード・センター(以下WTC)の映像が映し出されていました。
私の住むアパートは、Houstonストリートと6th Avenue交差点のすぐ近く、WTCからは北におよそ20ブロック上った所にあります。(注:以下の地図に書かれた住所は、正確なうちのアパートの住所ではありません。住所は一応秘密にしていますので)
Get Yahoo! Map

崩壊する前のWTCの様子は肉眼で鮮明に見えました。6th Avenueには人がたくさん立ち尽くしていまして、私と同じ様に携帯で友達と話したり、カメラで写真を撮っていました(写真はスキャンしたらアップします)。
で、その時は“ただの火災”だと思っていました。飛行機が突入したなんて誰も思っていなかったし、ましてやテロだなんて…。
ということで、取り合えず会社へ。地下鉄では早くも“火災”のことを構内で流していました。勿論地下鉄の本数は少なく、遅刻して出社。その時は、Incomingの電話はまだ通じていました。ただ、社長がロンドンに出張していたので、イギリスに電話をかけようとしても不通。彼が今夜NYへ帰ってくる予定でしたので、航空からのリモ会社に電話したところ、10時前の時点ですでに空港全面閉鎖のおふれが出ていました。

<<Getting Chaos 〜混乱の時>>

(写真左は、事情説明を聞く為に警察官に群がる人々)

それから先、数時間はこの書き込みを参照して下さい。会社にはモニターはあってもケーブルTVがなく、ラジオと友人・知人からのメール&ネットで状況を知るのみ。CNNのサイトはなかなか繋がらず、やっと繋がった時は、真っ白いバックに「America Under Attack」と大きな字が書いてあるだけで、もの凄く恐怖感をあおられてしまいました。
ラジオなどでペンタゴンも同時テロにあった事などを知り、飛行機がいまだに行方不明だという情報(行方不明の4機は結局全てクラッシュしたのですが)が錯綜し、タイムズ・スクエアのメイン・ビルボードからわずか一ブロックのビル内にいる私達に、恐怖感が走ります。そうこう言っている間にWTCが崩壊…。まさに晴天の霹靂とはこのことだと思いました。
Jury Duty(陪審員)で、裁判所(かなりWTCに近いです)にいた同僚が、60ブロック以上歩いて会社に到着。彼は2つ目のWTCが崩壊する瞬間を真近に見たそうです。人々が逃げ惑ってパニック状態だったとか。

11時ごろまでには、地下鉄・バス等の交通機関全てがストップ。取り合えず状況を見てから帰ろうということになりました。11時前後、市内通話までパンクしていた電話が取り合えず復活。日本からの電話やメールに対応した後、午後1時頃、以下の場所にある会社を出ます。(注:こちらの住所も正確な住所ではありません)
Get Yahoo! Map

<<Going Home by walk 〜徒歩で帰宅>>

(写真右:警察署近くは、通行止めに)

さすがにタイムズ・スクエアは避けて9th Avenueを南に下ります。42ストリートにあるバスターミナルには、マンハッタンを脱出しようとする人達の人だかり。警察官が人々を必死になだめています。そこを暫く下ると中央警察局。警察はやはり狙われるかもしれないので、周辺は通行止め。エンパイヤ・ステート・ビルディングやマジソン・スクエア・ガーデンなど、目標物になりそうなモノを横目に見ながらさらに南へ歩きます。
空には軍用機、聞こえるのはパトカーと救急車のサイレンばかりで緊張の時。殆どの人達が北へ向かって歩いているので、私は人の波に逆らって歩いて行きました。

午後1時から2時の時点ですでにクローズしていたのは、シティバンクやスターバックス等大手のチェーン店。ドゥエイン・レインやCVS等のドラッグ・ストアはまだ開いていました。小さな商店は軒並み皆オープンしていたのです。理由は2つ。一つは、マンハッタンに住んでいる人達は別として、川や湾を挟んだマンハッタン以外の所に住んでいる人達(ブルックリン、クイーンズ、スタッテン・アイランド、ブロンクス、ニュージャージー)に住んでいる人達には、帰る交通手段がなかったのでした。後でニュースで見ましたが、ブルックリン・ブリッジやクイーンズ・ボロー・ブリッジを皆歩いて渡っていた様です。
二つ目の理由は、実は人々が皆外を歩いていた為に、途中で飲み物を買ったりアイスを買ったりしていたのです。今日は不幸中の幸いにも猛暑というワケではありませんでしたが、日中1時間以上もひたすら歩くのは暑かったです。その他、売り切れが続出していたのが、使い捨てカメラとビデオ・テープ。使い道は…お分かりですよね。

14ストリートと7th Avenueにあるセント=ヴィンセント病院の前を通ります。ちょうどこの時、ジュリアーニ市長がこの病院から記者会見を行う直前だったので、病院前は報道陣でごった返していました。
病院から開放されたのか、真っ白な灰を被った人々も何人か見かけ、いよいよダウンタウンに帰って来てしまったな〜、と再び緊張感が…。銀行でお金を下ろして行こうと思ったら、7th Avenueとクリストファー・ストリートにあるシティバンクの現金はすでに全部なくなっていました。クリストファー・ストリートから6th Avenueに行く途中のスーパーには、買い置きをしている人達が沢山いました。

私も飲み物などの買いだめをして、再び6th Avenueへ。朝まではまだあったWTCが、もうなくなっていました。クイーンズ在住の友達と携帯で話すと、炎上の煙はクイーンズのアストリア地区(けっこう内陸に入ります)にまで達しているとの情報。それって、ものスゴイ距離なのですけれど…。
随分と遠回りをしたので、1時間ちょっとかかってやっと家まで辿り着きました。こうした事態になると、つい数年前のロス暴動みたいに、混乱に便乗した暴力沙汰が起きやしないかとヒヤヒヤしていたのですが、現在私が知るところでは、そういった情報は一切聞いていません。

<<Getting Settled 〜落ち着きを取り戻して>>

(写真左:うちのアパートの屋上からの光景。右下に警察のトラックが列をなして止まっています)

帰って来て、報告の書き込みを済ませた後、アパートの屋上へ。う〜〜〜ん、燃えている、燃えている…。そしていつもは目の前にあったものが…ない…。
朝は映っていたTVが、帰ってきたら全く映らない状態になっていました。ケーブルを持っている友達は全部映っていると言っているので、地上波だけだと思います。殆どの放送局のアンテナがWTCにあったかららしいのですが…。現在CBSはなんとかザラザラした画面を見ることが出来ますが、ABC、NBC、FOXは全滅。かろうじてマイナー局の25チャンネルに何かがかすかに映っているのが見えるだけ。う〜ん、各映像は日本にいる皆さんの方がたくさん見ているかもしれません…(^_^;)。

TV&ラジオでO型の血液が足りないと呼びかけをしているので、O型の私はさっき通って来たセント=ヴィンセント病院へ行くことにしました(実はセント=ヴィンセント病院のすぐ南はゲイの人達が住むメイン地区でして、HIVポジティヴの人が多くて献血者が足りないのではないかという噂まで流れる始末)。それまでの時間、14ストリート以南は、警備強化地域になっていたので、Houston Streetには軍や警察のトラックが列をなして止まっていましたが、一方ではバスや地下鉄も動き出していました。
セント=ヴィンセント病院(写真右)は、東のベルビュー病院と並び、負傷者がひっきりなしに運び込まれてくるのと、市長の記者会見上に使われていた為、もう大混乱状態。負傷者の家族、酸素ボンベのトラック、報道陣などで、もうもみくちゃ状態でした。結局、輸血はアムステルダム通りにある赤十字に行ってくれということで、地下鉄に乗ってアップタウンへ。地下鉄が運行していると言っても、ローカル線とエクスプレス線がめちゃくちゃで、なんとハーレムまで電車が止まらなかったのですが、ハーレムのメイン・ストリートはなんとものどかな雰囲気でした。まるで、何事もなかった様に…。
リンカーン・センターの裏手にある赤十字は、こちらももの凄い人だかり。結局、ボランティアの人達が献血者をさばき切れなくなって、取り合えず献血の受け付けは打ち切られました。明日また来て欲しいということなので、お昼休みにでも行ってこようかなと思っています。

(写真左:街の至る所に発煙塔が...)

5時半に崩壊した3つ目のWTCの影響で、行きは開通していた地下鉄が帰りは再び部分閉鎖に。バスを乗り継いで、何とかやっと帰って来ました。
ちなみに再開後の地下鉄、バスは全て無料。私は携帯を持っていたので使わなかったけど、公衆電話も全て無料だったそうです。バスも路線表示の所に、「Call 911(緊急の電話番号)」と書いてあったり、地下鉄のビルボードにも「一番危ないのは、人々がRushする時」という表示が出るなど、普段からこういった非常事態の用意がしてあったんだな〜、とヘンな所に感心してしまった私でした。
ルームメイトのCが、ガールフレンドを連れて帰って来たので、もう一人のルームメイトFとブッシュ大統領の演説を見ます。かなり強硬姿勢の内容だったので、相手をかえって刺激してしまうのではないかと心配…。それにしても、 ニュースではパタキNY州知事を含め、少なくとも5〜6人の人々が「コレは21世紀の真珠湾攻撃だ」と堂々と発言していました。複雑な心境…。

(写真右:部分的にはからっぽになってしまったマンハッタン)

私の周りでは、自分は無事だったがWTC付近にある自分の自宅へ帰れないという人がいまの所3人。そのうちの一つは、今年私がゴールデン・グローブ賞を観ていた所。WTCからたった2ブロックの所です。そこがどうなってしまったのかなんて、想像だに出来ません。
ついこの日曜日に書いた様に、たったの2日前、私はこのWTCからバッテリーパーク付近を気持ちよくジョギングしていたのです。私のとって置き、お気に入りのジョギングコースがあれっきりになってしまったなんて…。そして、WTCのすぐ近くには私の大好きな彫刻家、Tom Otternessの最高傑作があるのです。たった2日前に見たあの彫刻が、もう跡形もなくなくなってしまっているのかと思うと…。本当に、いまだに夢を見ている様な気分です。

それにしても、日本からの電話は全然通じなかった様ですね。今回はメール&ネット大活躍でした。特にHPの掲示板は、複数の人にいちいち同じ内容のメールを送る必要もなく、とても助かりました。
取り合えず今日はこの辺にしまして、近況は追ってこのページか、ゲストブックの方に書き込みしていきます。写真も上がり次第順々にアップしていく予定です。

ご心配頂いた方々、本当に有難うございました。m(_)m

NY市による公共情報はこちらから

One Day After...
Sep 12, 01

昨日は極度の緊張と、交通機関が通常通り機能していなかった為にひたすら歩き廻ったので、下に書いた日記を書いた後疲れ果ててベッドへ。その後も電話やサイレン&ヘリコプターの音に起こされて、結局殆ど熟睡は出来なかったのですが…。
私の部屋は6th Avenueのすぐ裏にあり、この通りでは昼夜を通して現場からセント=ヴィンセント病院へひっきりなしに救急車が行き来するのが聞こえます。またうちのアパートのすぐ南にあるHouston Streetは一般の人達の歩ける南限になっている(つまりそこから南は立ち入り禁止区域)ので、警察やレスキュー隊の車もうちの前付近に大集合。また、6th AvenueとHouston Streetの南西端には消防署もある為、報道陣もこの界隈を行ったり来たりしています。

私の周りには深刻な事態になってしまった人達というのはいないのですが、昨日の時点では、電話で友達と話す度、さらなる攻撃があるのではないかという不安が広まるばかりで、神経はかなり張り詰めまくっていました。ココはある意味、攻撃された地域とこれから攻撃されるかもしれないミッドタウンに挟まれた場所でもあるので…。
ブルックリンやクイーンズやアップタウン等、比較的安全な友達の家へ避難することも出来たのですが、そっちに行ってしまうとネットで日本語が使えなくなってしまうし、家へ電話がかかってくるかもしれないし、やっぱり自宅の荷物が心配でしたしね(何かあったら貴重品持って逃げなきゃ、みたいな…)。

朝、うちの会社は平常通りオープンするのでちょこっと遅れて出社。地下鉄は殆どの線が運行しているものの、ローカル線とエクスプレス線が違う路線を走っていたり、多少のダイヤの乱れはありました。
写真右上は、USA Today9月12日付けの表紙。今日付けのニューヨーク・タイムス紙は、購読者に配達されたもの以外、街中のニュース・スタンドで売りに出されたのはほんの一部に止まり、それらは売り出された途端あっという間に売り切れてしまいました。私も友達も昔は皆とっていたのに、ネットで読める様になってからは購読をやめていたので、この日のNYTは“幻の一号”となってしまい、これらが将来オークションなどで売りに出されるのは必至だと思います。

うちの会社のあるタイムズ・スクエア付近は、人の数は俄然少なかったものの、いつもの様に観光客が歩き廻っていました。さすがにオフィスへ出勤する人は殆どいませんでしたけどね。私の友人・知人の会社はこの日、殆どが自宅待機でした。
下にも書きましたが、会社にはTVがないので一日中ラジオ。ポール=ハービィという、ラッシュ=リンボーと並んで保守の論客としては有名なラジオ=パーソナリティが、過激な発言を繰り返しています。コレだけ聞いていると、戦争が始まっちゃうんじゃないかと不安になる様な激しさなのですが…。
けど、午後になって明るい話題が一つありました。昨日の日記にも書いた、ワールド・トレード・センターからわずか2ブロックの所に住む友人の飼い犬が救出されたとか。未だに彼等のアパート自体がどういった状態になっているのかは分からないのですが(その友人は仕事中でミッドタウンにいたので無事でした)、取り合えずは良かった良かった。

夜7時に会社を出て、家の近所にある献血場(Chelsea High School)へ向かいましたが、そこも結局立ち入り禁止区域になってしまったので閉鎖されていました。ルームメイトのC君も24ストリートの献血場へ行ったら、献血に来た人の方が多過ぎて受け付けも打ち切りになっていたとか。私が昨日行った赤十字も、お昼の時点で4〜5時間待ちだったと聞きました。
上にも書いた近所の消防署に報道陣や人々が集って、消防士達の激励会が。これから他に私達に出来ることは、衣服や靴の寄付。靴や靴下が特に必要とされている様です。

家のTVで映るのは、相変わらずCBS一局のみ。コマーシャルも一切なしで、ニュース番組がひたすら続いています。昨日はとにかく、何が起こっているのか分からない、夢でも見ているのではないかという感じでしたが、生活が平常に戻っていくにつれ、だんだんと現実味が輪郭を帯びてきます。FBIは現在、容疑者グループの捜査活動を続けていますが、たとえ犯人が全員逮捕されて何らかの措置が取られたとしても、このトラウマから、人々は一生抜けられないのではないでしょうか。たとえ数年後、WTCに変わる新しいビルが建設されたとしても…。ジョギングで、買い物で、週に一度は行き来していたWTCのエリアが、今はただの瓦礫の山なんて、本当に今でも信じられないし、信じたくない気持ちで一杯です。
確かにWTCの激突劇は映画のワンシーンの様で、あまりにも現実感がなかった。それが一週間たち、一ヶ月たち、一年経ってだんだんと現実のものとなっていくのですね。このページにはこの先一週間、一ヶ月、一年後の私の気持ちを書いていこうと思っています。

Two Days After...
Sep 13, 01
(写真左:9月13日付けNYタイムスの第一面)

この日記ページは、また一週間後にでも再開しようと思っていたのですが、やはり書くことが沢山あるので今日は書きます。尚、これまでは全て“です・ます”調で書いてきましたが、自分の日記なので、このページだけは“である”調で書くことにしました。

* * * * *

実はこの日記を今にも書き終わろうかと言う時に、前の彼氏から電話がかかって来た。お互いに携帯が繋がらず、すれ違ってなかなかゆっくり話すチャンスがなかったが、ロングアイランドに住む彼の両親を通じて私は彼の無事を知っていたし、彼も私の無事を知っていた。
彼の開口一番は、「Rayおじさんを覚えてる?」。「うん、クリスマスやサンクス・ギビングのパーティで会った彼でしょう?え…、もしかして、まさか…」。悪い予感はまさに的中。消防隊員のチーフであるRayおじさんが、行方不明になっているのだという…。ここへ来て、そんな悲報を聞くなんて夢にも思っていなかったので、目の前が真っ暗になった。こんな時は、本当に返す言葉もない。親戚の家では、すでにいつお葬式を出そうかを考え始めているという。何だか全然実感が湧かない。英語だからということもあるのかもしれないけれど、慰めの言葉が全く見つからない。一昨日までは、彼の母親もあんなに何度も「皆が無事で良かったわ」と言っていたのに…。
彼は今週ではなく、来週のNYタイムス日曜版に、Rayおじさんや彼等の周りの消防隊員の記事を書くと言う。実は彼はフィルムメーカーで、この半年間、ブルックリンを中心に、消防隊員達のドキュメンタリーをTV番組用に制作していたのだ。そのフィルムに収められている多くの消防隊員も、やはり救助活動中に行方不明になってしまったという…。

* * * * *

---以下、彼から電話をもらう前に書いていた今日の日記です。

(写真左:49丁目にあるActor's Churchに掲げられた星条旗)

まず最初にタイトルについて。ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーに“2Days After”にすべきか、“2Days Later”にすべきか聞いてみた。文法的にはどちらも合っているという。ただ、“After…”には通常“The Day After Tomorrow”の様に、後に何かが付くのが普通なので、“2Days After”は、何か大きなイベントがあった後の“After”でなければならないという(言いかえれば、大きなイベントの後ならAfterの後を省略出来るということ)。それなら明らかにこの場合は“After”だ。

やはり夜通し続いたサイレンの音で寝不足のまま8時に起床し、いつもの通り出勤。今日から14ストリート以南は許可のある車しか通行が出来なくなっていたので、家から駅までの2ブロックにはパトカーかレスキュー隊の車しか見当たらない。近所の新聞スタンドでは、今日もNYタイムズが売り切れ。一見いつもと変わらない様な光景なのに、少しずつ何かが違う
以前、ゲストブックで何回かご紹介した黒人のおじさんフレディは、今日もWest 4th Streetの駅で歌を歌っているが、歌っている歌がいつもと違う。大切な人を失った悲しみの歌。自分のお母さんが亡くなった次の週でさえ、明るい歌を歌っていた彼なのに…。地下鉄のホームに入ると、子供達にそれぞれ親達が付き添っている。公立学校は今日、いつもより2時間遅れて授業を開始した。

朝方、グランド・セントラル・ステーションとエンパイア・ステート・ビルデングで爆弾疑惑があった為に、東側の地下鉄は一時的にストップ。けれど、私の乗る路線(A・C・Eライン)ではCラインが全面不通になっていただけで特に影響はなかった。
C・Eラインの50th Street駅に着く。やはりミッドタウンの方がダウンタウンより落ち着いている。飛行場が閉鎖になって帰れないでいる観光客で一杯だ。いつもベーグルとコーヒーを買うベンダーの女性が見当たらない。彼女は昨日も来ていなかった。明日はいつもの笑顔を見せてくれるだろうか。

(写真右:夕暮れのタイムズ・スクエア。左側の電光掲示板に星条旗が見える)

会社に着くなり、LAに住んでいる友達から電話がかかってくる。彼女も何度か携帯に電話してくれたらしいが、相変わらず携帯は繋がったり繋がらなかったりなので知らなかった。こちらから掛ける時も、まだ掛けられる時とダメな時がある。また、最近私は家の電話線を殆どネット用に使っているので、留守番電話オンリーの番号を持っているのだが、実はそれが2日前からパンクしてしまって全く機能していない。今日、やはり西海岸に住む友達からメールがあった。留守電にメッセージ入れたけど、返事がないので心配していたのだと…。実は無視してるメッセージがまだ他にもあるのかもしれない。
母校の方で、卒業生の無事確認(またはその逆)リストを作るらしい。メールで卒業生リストに登録する。親しい友人は殆ど西海岸に行ってしまったので、大丈夫だと思うのだけれど…。

私の会社は日系なので、業務の殆どがお見舞いメールやファックスに対するお礼の対応。一番多かったのは昨日だが、今日もまだ続々と来ている。数年前に神戸地震があった時、私はもうNYに来ていて、その第一報を友達の家で観ていた夜10時のニュースで知った。その後はやっぱり一晩中TVにかじりついて眠れない夜を過ごしたことを覚えている。だから、あの時の私のいたたまれない気持ち、はがゆい気持ちを、今日本の皆さんも同じ様に体験しているのではないだろうか。

(写真左:タイムズ・スクエア南を東から臨む。真ん中下にあるロイター通信の電光掲示板にも星条旗が。)

いつも職場で聴いているラジオ、Z100に曲がかかる様になった。ここは元々ミュージック・ステーションなのだが、さすがに一昨日は曲を1曲もかけていなかったのだ。それでもかかる曲はエンヤや、マドンナの“I’ll Remember”、Born in America等、ポップ・ソングは一曲もかからない。パーソナリティの一人が、こういった事態は、我々のカルチャーがテロに屈してしまったことになるので、近いうち必ずいつもの我々の曲=我々の文化を復活させてみせる、と言っていた。それでも人々がポップ・ソングを聴く気になれるまでは、まだ数日を要するのではないだろうか。
ランチ時になっても食欲がない。同僚の人もやはりこの3日間、あまりのショックに食欲が減退してしまったと言う。非常時に備えて、食べなきゃならないのは分かっているのだが…。さすがにアメリカのこってりモノは受け付けないので、近くの日本料理屋さんから肉キムチそばを買って来た。途中、ワールド・トレード・センター(WTC)の絵葉書を5枚買う。コレって、半年後にはもう売っていないんだろうなぁ、と思いつつ…。そして、今日たまたま送られて来た、友達の作った短編映画を見ながら食事を取る。映画の最後には、ヘリから撮ったありし日のWTCの姿がくっきりと写し出されていた。

(写真右:42丁目にある交番に掲げられた殉職警官達への言葉。)

昨日の日記に書いた、WTCから2ブロックの所に家のある友達と電話。彼等のアパートは今のところ無事らしいが、1〜2ヶ月は帰れないだろうと言われているそう。彼等は明日、実家のあるデラウエアに帰る。ハイジャックが怖いので、飛行機も電車もバスも使わず、親が運転してくる車で帰るのだそうだ。やはりこのトラウマは深い。
夕方になってZ100で、「ホイットニー=ヒューストンは生きています」という言葉が繰り返される。どこからともなく、彼女が今回のテロに巻き込まれたという噂が流れたらしい。1〜2ヶ月程前、ブリトニー=スピアーズが事故で死んだという噂がラジオで全世界へまたたく間に広がったので、H=ヒューストンの件も一部では噂になっていたのかもしれない。
交通機能マヒの為に配達されなかった読売新聞がオフィスに届く。3日前の新聞に書かれたモントリオール映画祭受賞式の特集記事で、グランプリを受賞した「BARAN」がアフガニスタン難民の少女の話だったことを思い出した。今回のテロの影響で、一般公開どころかNY国際映画祭の上映まで見送られてしまったらどうしようと心配する。国籍や人種と、映画芸術は全く関係がないというのに…。

会社を出る夜6時半頃、CNNサイトのブレイキング・ニュースで、今朝開いたばかりの空港が再び閉鎖になったという情報が入る。偽造のパイロット証を持ったグループが逮捕されたらしい。再び緊張が走ったので、献血場へは寄らず、まっすぐ帰路に付くことにした。ところが別の用事があったのでたまたま使った1・9ラインが、14ストリートまでで閉鎖になっている。仕方なく、そこから家までまた歩いて帰ることにした。

救世軍の前に積み上げられた水のボトル
食料をトラックに積み込むボランティア達

14ストリートの駅をすぐ上がったところに、前述したセント=ビンセント病院がある。報道陣や警察の数はむしろ2日前よりずっと多くなっていて、1ブロック以上は近づけない。仕方なく遠回りして6th Avenueへ向かう。途中、救世軍の前を通ったが、中学生や高校生等の学生を中心に、みんな食料や水を懸命にトラックへ積み込んでいた。
6th Avenueへ入った辺りから火災の異臭が気になり始める。今朝までそんなにヒドくなかったのは風向きの為。家へ近づくにつれて異臭はひどくなり、鼻が詰まる様な気さえしてくる。14ストリートではちらほらしか見かけなかった、マスクを付けた人達がどんどん多くなって来た。うわ〜、凄い匂いだ…。

公衆電話ブースに貼られたビラに見入る人
ピザ屋に貼られたビラを見る人達
ペットショップのウィンドウ。
右下に寄付箱がある

電柱や公衆電話の所に、ミッドタウンではまるで見かけなかった「訪ね人」のビラを沢山見かける様になる。ダウンタウンの病院をあちこち廻っている家族が貼っていって行ったものなのだろう。12ストリートと6th Avenueのピザ屋さんの角には、それこそゴマンとビラが貼ってあり、沢山の人々がそのビラに見入っていた。
昨日の日記に書いた様に、家のすぐそばの角には消防署があったり報道陣が在駐したりしているので、近所は彼等を応援する為に集まってきた人達でごった返している。皆、アメリカの国旗をマントにしたりターバンにして巻いたりしている。散歩している犬に国旗を付けている人も見かけた。そう言えば、ミッドタウンでは殆ど見かけなかったが、ダウンタウンでは店頭にアメリカの国旗を掲げている店が多い。しかもそれらの殆どが、チャイニーズ・レストランやコリアン・デリなど。おそらく、ロス暴動時の様に人種差別で店が襲われるのを怖れているに違いない。一見、アメリカという国旗の下に誰もが一体になっている様に見えるが、実はそう単純なものでもないと思う。

チャイニーズ・レストランに掲げられた星条旗
(頭の上に見えますか?)
路上で星条旗を買う人達
(マスクをしていることにも注目)

このHPではお馴染みの(?)カマーシェのオーナー、パトリックと暫く立ち話し。今日はブッシュが「これは21世紀最初の戦争だ」と言ったりして、この報復劇は延々と続いてしまうのではないか、と二人で真剣に心配する。たとえ一ヶ月先までが安全でも、彼等はきっとまた何か仕掛けてくる。「やられたら、やり返す」のではキリがない。勿論、彼等に話合いなどというモノは通用しないのは分かっているけれど、強行姿勢には断じて賛成出来ないのが私の姿勢。この先一体どうなるのか。彼とお互い「Keep yourself safe」と言って別れた。

相変わらずTVはCBSしか映らないし、いまだにコマーシャルは一つもない。TVを持っていないFと、TVの殆ど映らないCと3人でニュースに見入りながら日記を書く。そして最後に何を書こうかと思っていた時、冒頭に書いた彼からの電話がかかって来た…。

Sep 14th - 16th, 2001

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