*** Book Reviews ***

フィクションは基本的に読めない性格なので
ノンフィクションものが中心になってしまいますが…(^_^;)。

”事実とは何か”- 本多勝一著
Dec 23, 01

私はめちゃくちゃ遅読の人なので、最初から最後まで読む本と言えば年に4〜5冊くらいしかありません(恥ずかしすぎ?)。それも大抵はこの本の様なノンフィクションものばかり。特に今年は、同時多発テロ事件の後、現代史に関わる本を何冊か読み直しました(それにしても、この本感想文のページって、一年一冊のペースになりそうな気が…(^_^;)。

え〜、私がこの本(同じ本多勝一著『事実とは何か』でも、出版年や出版元によって掲載内容が違っています。今手にしているバージョンは、1964年版の朝日文庫。写真右)を最初に手にしたのは、20歳になるかならないかの時。大学の生協でだったと思います(^_^;)。この本多勝一著の朝日文庫シリーズというのは、それこそ20種類くらいのバージョンが発売されているのですが、いわゆる定番クラシックである『中国の旅』や『戦場の村』からいきなり読み始める度胸は私にはなかったし、別にジャーナリストになりたいワケではなかったので、『日本語の作文技術』や『職業としてのジャーナリスト』にも、全く興味がなかったんですよね。あと、彼は冒険系のルポも沢山発表していますが、そっちも自分の興味の範疇ではないので、いまだに手付かずの状態(^_^;)。
…ってコトで、結局消去法をして買ったのがこの本なのです。まぁ、最初は皆周りが本多勝一読んでいるから、話を合わせる為にコレ買っただけだったというのが本当のところ(^_^;)。それが読み進んでいくうち、「あ〜、コレが自分の考えていたことだったのか」と、自分のモヤモヤした気持ちを彼にちゃんとした言葉で代弁してもらった様な気がして、妙に感動した覚えがあります。

それは取りも直さず、この本のテーマの一つである“人に何かを伝える”ということについて。それはどんな媒体(=メディア)を通してだって、基本的には同じコトなんです。新聞・雑誌・TV・映画、そしてインターネット。これらにはどれも情報の“送り手”と”受け手”の間に何らかの媒体が挟まっているという意味で、基本的には同じ様に考えてみることが出来ます。

例えばニュースや新聞の報道について。前にあるジャーナリストの人が、私は事実というものを、ただありのままに、鯉の生きづくりの様にして視聴者の前に差し出したい…と言っているのを聞いたことがあります。けど、”ありのままの事実”をすくい出して、それを誰かに”生きづくり”の様に伝えるなんて出来っこないってコト、ちょっと考えれば誰にだって分かる事ではないですか。この本の中でも著者が何度もそう書いている様に、そんなこと、物理的に言ってまず不可能なワケでしょう?
例えば、ビデオなり写真なりに犬が一匹写っている。今二次元で見ているこの犬は、白く見えるかもしれないけれど、もしかして犬の反対側に廻ったら、黒い犬に見えるかもしれないじゃないですか。将来メディアの技術が進んで三次元の世界をよりリアリティある様に伝えられる様になっても、やっぱり100%完璧に何もかも見せるというのは有り得ないコトでしょう。
では送り手は、受け手に、その犬の“どの角度から撮った映像”の”どんな瞬間を見せるのか?”ここにはもう言うまでもなく、その”送り手側の選択肢”というのが、どうしたって絡んで来てしまうのです。それが意図的なモノであろうとなかろうと…。例えばテロ事件の報道一つを取ってみても、世界各国の報道には微妙なズレが生じていることを否定出来る人はいないでしょう(このページも参考にしてみて下さい)。勿論同じ国の報道だって、NHKとフジTVの報道じゃ違うものになっているなんてこと、私がここでわざわざ書かなくたってお分かりですよね。

私はつまり…この”一人一人の送り手が、それぞれ違う立場から、色々なバリエーションの事実を受け手に向けて送っている”というコトを、基本ベースというか、全てのスタート地点にしたいなと思っているのです。”色々なバリエーションの事実”?そう、事実はこの世に一つではない…、その事柄に関する人(モノも?)の数だけ存在していると私は思ってるし、この本はそのことを分かり易く、そして的確に言葉にしてくれています(特に、32ページ目に書かれている”事実≒真理≒真実=立場によってそれぞれ違うモノ”という個所は必読パート。西欧の言葉、特にドイツ語においてこの3つの言葉は殆ど同じモノとして使われています)。
言い換えれば、この世界に(少なくとも私達の暮らしているこの世の中に)、”唯一の正しい事実”というモノは存在しないし、”公正な報道”というのも存在しない。それは”良い”だの”正しい”だのという次元をまったく通り越してあり得ないのです。普段、”TVが言っていることは正しい”、”新聞がそう書いているのだから”と思ってしまいがちな私達は、”送り手もまた、私達と同じ人間である”という原点に常に立ち帰ってみなければならないと思います。

大事なのは、自分がある一つの事実を観る時の、視点のバックグラウンドは何か=自分の立場は何処にあるのか?ということを普段から明確にしておくコトなんじゃないでしょうか?ソレは、”自分が日本人である”とか”自分は女性である”とか”自分は何年生まれの何々世代である”とかいう立場だけでなく、自分の政治に対するポリシーとか、趣味に関するテイストとか…。自分のポジションが自分の中で明確であればある程、誰かがメディアを通して発する、何を見ても、何を聞いても、何を読んでも、彼/彼女(=送り手)のポジションというのは(それが自分に近かろうと遠かろうと)、おのずと明確になって来るモノですよね。
勿論、私は何も、自分の立場や好みに固執しろと言っているワケではありません。自分と相手の位置関係がクリアになればなる程、自然と相手に対する関係もフレキシブルになるというモノ。例えば、自分の意見がいつも白か黒かでないのと同じ様に、世の中で起こっていること全てが白か黒かではない。この辺のところ、例えばこの本を読んでいて、彼が当時のベトナム・カンボジア状勢、ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストの論調をどう見ているかにも如実に現れて来ています。何が何でもベトナム政府がいつも”善”というワケではないし、ニューヨーク・タイムスがいつも正しいことを言っているワケではない。当たり前のコトみたいですが、今の時代だってここまでフレキシブルに、そして鋭く世界状勢を見ているジャーナリストは、まだまだ本当に数少ないです。

自ら朝日新聞という一大新聞社に所属していながら、“マスコミは私器である”(公のモノでなく、個人の私利私欲の為に使われている)と言い放ち、対談相手である小和田次郎氏の言う“新聞は凶器である”という言葉に同意する筆者はまた、一人のジャーナリストとして、ジャーナリズムそのものについても、多く言及しています。コレが下手すると、ジャーナリズムという存在自体を否定しかねないのがこの本の面白い所(^_^;)。
”メディアの資本元である会社や組織に属するコト“についての、メリットとデメリットから、小説・雑報・ストレートニュース、そして筆者が日本の先駆けとなったルポルタージュに至るまで、メディアの違いと事実の伝え方の違いなど、すでに新聞記者のベテランとしての彼だからこそ書ける部分も多くあったと思います。精神科医から小説家になった加賀乙彦氏を引き合いに出して、事実を伝えるのにはどの手段(小説か、ルポルタージュか等)が有効か?と言った問題を問う部分も面白かったし。

例えば、自分が怒っている時に「○○は怒っている」とただ感情的に書いても、それに共感してくれる人は少ないでしょう。では、どうして○○は怒っているのか?何に対して?その背景には何があるのか???その詳細を明確に書けば書くほど受け手に対する説得力が出てくるというモノ。それを小説で表現するか、ルポルタージュで表現するかについては、私的に読むと、フィクション映画にするか、ドキュメンタリーにするかとも解釈することが出来たりなんかします。
ニュースのクリップと同じく、ドキュメンタリーを”事実をありのままに見せている”と錯覚している人は多いかもしれませんが、ドキュメンタリーも立派にその監督の主観的作品。全て監督の視点から撮影が行われ、編集がされているのです。小説&映画、またはルポ&ドキュメンタリー、手段は何であれ、その表現方法はそれこそ数え切れない程存在する。極端な言い方をしてしまえば、「○○は怒っている」と伝える時、科学的に体内のアドレナリンがああなってこうなって…という書き方をしたっていいんですもんね(^_^;)。

同時に筆者は、メディアを通した送り手と受け手のコミュニケーションについて、そこにはやはり送り手の”トリック”が存在し得るということも忘れてはいません。教科書問題に絡む、日本軍による中国への全面侵攻があったかなかったかについて、”Aという事柄に関して、Bという部分の記述は誤りである。よってA全体も全て誤りである”という、科学的に言えば考えられない様なこじつけトリックを見事に論破しています(p263)。
そしてこの本から私が学んだモノのうち、一番印象に残っているのが、”悪いのは『戦争』ではない。悪いのは『侵略者達』である”という、これもある種のトリック破りですね。つまり、『戦争』という抽象的な言葉を非難してみても、本当は何も始まらないし、人間は本質的に戦争をする動物であるという”誰も悪くない論”に達してしまうだけ。コレは戦争責任者達による、責任逃れ論以外の何物でもありません。”『戦争』というものはああいうモノだ”、だから多少の犠牲は仕方が無い…という理論は、戦争で得をする人達と、仕方がないと言って死んでいく人達の不公平さを決して埋めるものではありません。

この本に収録された記事やインタビューの多くはベトナム戦争時代に書かれたモノ。80年代の終わりに私が最初にこの本を読んだ時、正直「う〜ん、この本はもう古典だなぁ」なんて思ったことを覚えています。けど、読み直した今年2001年、この本から学べることは何と多くて深いのでしょう。
例えば『戦争』というものが、今も昔も”どちらかが戦争を仕掛け→もう一方が報復する”という単純構造で成り立っているのではなく、あくまでも両者のパワー・ポリティックス=海外戦略=侵略で進められているということ。そう、ベトナム戦争だって、最初は報復戦争という名目で始められていたのです。でも、その本当の目的はアジアにおけるアメリカの反共政策だったし、南アジア、ひいてはアジア全体における海外戦略だった。今の対テロ戦争だって同じ。報復とは建前だけの、中東政策、石油利権を抜きにして、この戦争を語るコトは出来ません。30年以上も経ったのに、アメリカの手口って、こんなにも変わりばえしないのかとちょっと飽きれてしまったくらいです(^_^;)。
”敵の敵は味方”…太平洋戦争終戦間近のソ連とアメリカの関係や、自民党の岸政権が台湾へ逃げた国民党の蒋介石と親交を持ちたがる理由の部分等を読んでいると、数年前までは飼い犬として育てていたタリバンに素早く身を翻して攻撃しているアメリカの変わり身の早さは、やはり何時の時代も、何処の政権にも共通するモノなんだなぁと、コレも改めて実感させられてしまいました。

この本はまた、著書が日中戦争の日本軍による侵略行為について書いた『中国の旅』という本への反響についても多くのページをさいているのですが、この部分も今の私にはとても勉強になりました。日本軍の中国人虐殺に関して、中国人を含む多くの人達が「全ての日本人が中国人を虐待したわけではない。善良な日本人だって沢山いた」と反論した。それはそれで、やはり嘘ではないのだと思います。けど、善良な日本人”も”いたからと言って、他の日本人のやった行為が全てチャラになるワケではない。それは、よく考えてみれば当たり前のことですよね。
今、これと同じ様にアフガニスタンに爆弾を落としているアメリカ人もいれば、アフガニスタンの難民を救おうとしているアメリカ人もいる。けど、ソレって順番間違っていませんか???まず、最初にやめさせるべきは爆撃行為でしょう。それを無視して自分だけいい人ぶってる人達って、ただの偽善者でしかない様な気がしてしまうのですが。

話が飛びますが、私が大学で太平洋地域の経済的独立問題についてリサーチしていた時、アメリカ(…だけではなく、日本を含む全ての先進諸国)の”二枚舌政策”には、ほとほと飽きれ果ててしまいました。例えばアメリカ政府はこれまで、”ピース・コア”という発展途上援助グループをボランティアとして第三世界(もう死語ですが)へ送り込んできた。その名目は、”発展途上国が経済的に自立出来る様、いろいろな技術を教えたりサポートしたりする”というモノ。けど、その一方でアメリカ政府は、彼等が本当に自立してもらっては困るとして、政府への経済的締め付けを図り続けている…(この辺りのことは書きだすとキリがないので、パラオ共和国の歴史などを参考にしてみて下さい)。こうした矛盾を、アメリカの、そして日本のジャーナリスト達の多くは“書かない”のです。“書けない”人達もいれば、“知らない”人達さえいるのですが…。
ベトナム戦争初期のジャーナリスト達が、太平洋戦争中に大本営発表を垂れ流しにしていただけの新聞記者と全く同じコトをしていたという著者の記述は、アフガニスタンで起こった多くの爆撃被害や誤爆については殆ど書かず、新しい政権についてや女性解放のニュース(つまりポジティブな部分)にばかり焦点を当てている、今現在のアメリカや日本のジャーナリスト達への批判に、残念ながらそのまま繋がっていくのです(この部分については、池澤夏樹さんの『新世紀へようこそ』も参考にしてみて下さい)。

なんか本の感想を書くつもりが、結局自分の思っているコトへの自己確認ノートになってしまいました(^_^;)。ごあいさつのページにも書きましたが、私のこのホームページには、“mookの視点から見て、mookによって書かれた、mook個人の意見”しか存在しません。ホームページは、TVや新聞などのメディアに比べればずっとマイナーで身近なメディアであり、書いている人の個人性がより表れ易く見えていますが、それでもやはりダイレクトなコミュニケーションではないのです。私が貴方に面と向かって“私はこの映画が良く出来ていると思う”といった時、もしもその意見が貴方と違っていたら、貴方はすぐに反論することが出来るでしょう(貴方が自分の意見をちゃんと把握していた場合…に限りますが)。けど、インターネットの世界には、言うまでもなくワンクッションのメディア(=媒体)が挟まっている。その見えないオブラートを、常に意識していておいて欲しい。だから私は、必要以上にいつも“私は”、“私は”と言う言葉を繰り返して使っているのです。
“(インターネットという)メディアを通して、(私にとっての)事実を伝える”…、『事実とは何か』という30年近くも昔(?)に書かれたこの本は、今のテロ事件後の世界を読み解く歴史書としてだけでなく、つたなくはありますが世界に開けたホームページを持つ一個人としての私の一バイブルとして、これからも多いに役立ってくれそうな感じです。

”命”- 柳美里著
Nov 19, 00

この本を読んだのは8月の頭だったので、もうぼんやりとした感想しか残っていないのですけれど…(^_^;) もっともっと忘れないうちにやっぱり書くことにしました。

私がライターである柳美里さんの存在を知ったのは、ちょうど10年ほど前彼女が新宿梁山泊の為に書いた戯曲「向日葵の柩」を観に行った時のこと。それまで梁山泊の座付き作家だった鄭義信さんの戯曲が底辺の所では人間そのものを信じているのに対し、柳さんの作品にはこれでもかという程の人間不信を感じ、けれどその中で懸命にもがいている彼女の姿を見たような気がしたことを覚えています。

以来、彼女の作品はなるべく読むようにしていましたが、NYに来てしまってからはすっかり高価な単行本に手を出すことが出来ず、実はいまだに読んでいない作品も何作かあったりなんかして…。
2〜3年くらい前、彼女がNYタイムズに一面カラーで全身写真が写っていた時に紹介された「仮面の国」は、すぐに本屋へ直行して買っちゃいましたけどね(^_^;)。この本はもう「目から鱗」でした。こちらの知り合いの間でさんざん回し読みした本です。

その後、柳さんの作品としては「命」の一つ前に出版された「男」を読んでいました。で、そのすぐ後にこの作品を読んだので、まずはこの二つの作品の違いに驚いてしまいました。
柳さんの作品は「男」に限らず、セックスそのものを赤裸々に書いている作品が多いし、下手をすると彼女を官能小説作家(?)みたいに思っている人もいたのかもしれません。また、高校中退、右翼からの脅迫に対する反撃、「石に泳ぐ魚」裁判等など、彼女を「とてつもなく気が強い女」と思っていた人は多いでしょう。
彼女は確かにいつも、自分のことや周りのことを書き過ぎではないかと思われるくらい書き綴っていました。けれど「命」で初めて、私は彼女が自分の弱い部分を“素直に”“吹っ切って”書いていた様な印象を受けたのです。やはり東由多加氏と丈陽くんという二つの「命」が、柳さんの心を開いたのでしょうか。

人の死や誕生に繋がる部分では、本当にその人間に関わっている人達の真実が見えてくるモノなんだなぁというのが、私がこの本を読んで一番心に残った部分です。
それはもちろん丈陽くんの父親しかり、東氏を自分の息子の様に世話したNYのラ・ママ劇場のエレンしかり…(最相葉月さんの真剣な申し出にも、心打たれた私です)。そして、血の繋がっていない柳さん、東由多加氏、そして丈陽くんという3人の“つかの間の”擬似家族…。

柳さんが東京キッドブラザーズの研究生だった頃、東氏が稽古中に出した課題というのも印象的でした。「たとえば困った時にかならず助けてくれるひとが友達だとすると、あなたには友達が何人いますか?」---課題を出された研究生の友達にはバイトや彼氏と逢う約束があり、その研究生のところには一人も駆けつけてくれる友達がいませんでした。う〜ん、何人来てくれるのでしょうか、私のところには…(数はさしたる問題ではないような気もしますが)。私は以前、今すぐどうしても来て欲しいという友達の頼みを断ってしまったことがあります。相手はもう覚えていないかもしれないけれど、私はもしかすると一生忘れられないかも(もう10年以上も前のことなのですが)。人と人との繋がりって本当に何なのでしょうね?あ、また話が脱線してしまいましたが…。

そしてまた一方で、私達は血の繋がりという人間関係から逃れることも出来ません。この本でもう一つ私にとって印象深かったのは、柳さんの妊娠を知った彼女のお母さんの喜びでした。柳さんの妊娠を知った帰り道、お母さんは「これで美里は簡単に死ねない、ザマアミロ!」と叫んで万歳をしたのだそうです。それまでの彼女の作品にも度々出てくるのですが、実は彼女は母親から殺されかけたことが何度もあるのです。言ってみればそのトラウマを延々と書き続けて来た柳さんにとって、この言葉を後に東さんの口から聞いた時の彼女のショックは、本当にはかり知れません。これは柳作品の読者の一人である私にとってもかなり大きな衝撃でした。

もちろん“お母さん”になったからといって、それまでの柳美里という人が突然いなくなってしまうわけではないんですけどね。彼女の“これから”が彼女をどう変えていくのかが楽しみです。まさに「柳美里という生き方」ですね。(筑紫哲也のニュース23で、このタイトルのドキュメンタリーが放送されたそうです。私もこれから見てみたいなと思っています。)

----------------------
Back to Entertainment Index

Back to Home